槇村さとるデビュー50周年記念展示 #弥生美術館 | わたし、今、幸せ?

2024/02/11、文京区にある弥生美術館の槇村さとるデビュー50周年記念展示に行ってきた。

 

行き道では一番好きで、おそらく人生に最も影響を与えている漫画「Do da dancin'」のあらすじをなぞった。

 

ここ1ヶ月半ほど、モーニングページとかモーニングノートだか呼ばれる習慣を導入した。朝起きたらすぐに、SNSなどを見る前にiPadのアプリにApple pencilで画面いっぱいの文章を書く。この習慣は(Youtubeで知っただけの聞き齧りで実践している)、「ずっとやりたかったことをやりなさい」という自己啓発系の本の中で紹介されているようで、要するに自分の感受性を働かせるためのワークらしい。もともと文字で色々書きつける癖があるので、朝にやるとか、ペンで書くとか、書くことがなくても書くとか、そんなtipsで何がどう変わるのかは分からないけど、確かにMac bookのファンが回りすぎている時のように考えすぎて眠れないとか集中できないとかそういう場面は減った。理性脳とかが本当にあるのか?という感じだが、それを疲れさせているらしい。

 

そのおかげか自分の感性や感覚をそのまま辿ってみるように過ごす時間が増えた。感じる一番の変化は昔やっていたようにバレエに集中できるようになり、どこに顔をつけていたか考えなくても視点が定まるようなもので、眼ではなく身体で、どんなポーズを取るかを探るような、それそのままの日々という感じ。曲が流れると振り付けを思い出して手足がちょっと動くような時。(下手なりに)

 

Do da dancin'が私にとって懐かしいのは、「これを読んで私のバレエに対する感覚が磨かれた」という思いがあるからだ。鯛子さんのように全体的にとろくて、反射神経が悪い子どもだった。鈍臭いと何回か言われた覚えがある。でも本や漫画はよく読んでいた。Do da dancin'を読んで初めて、バリエーションの向こうにあるキャラクターへの探究や、シーンを絵やテキストとしてみるということが達成できて、その予備情報を踊りで再現するという試みがあった。

 

思い出してみると、この内省的な習慣というのは漫画で育てられたものだと思う。自分の中に、世界観をつくり、主人公としてエピローグを語るような、そんなことが当たり前だった。単に少女漫画脳とか、ナルシズムとかで揶揄されそうだし、実際自分自身もそう思って恥じた時期もあったけれど、元々漫画として広い読者に受け入れられているわけなので特におかしなことではなかったのかも知れない。

 

槇村さとる展に行って確信したのは、女性漫画家の仕事部屋への大層な憧れ。

槇村さとるさんの仕事部屋写真を見て驚いた。いつからか分からないけど、本棚に囲まれた間取りで、大きな作業机があり、ペンや紙が手の届くところに置かれた部屋が自分の居場所だと思っている節があった。実際の槇村さんの部屋はさらにそこに光が取り込まれた素敵なお部屋だったけど。

 

漫画が好きで、自分でも描いたりしたことがあった。学習教材か何かで、課題をやってポイントを集めると漫画家キットがもらえたことがあった。それで漫画を描いたりしていた。イラストを描いて、プラ板にしてオンラインの雑貨屋で売ったりしてみていた。たまに創作活動に熱心になってくるみボタンを生成したり、今日マチ子さんの絵が好みでコピックを買い集めたり、スケッチブックに1日1絵描いたりしていた。子ども部屋は自分の工房で、消しゴムはんこを彫ってみたり、図書新聞を手書きしたりしていた。確かマスキングテープが山のようにあったはず...

 

そのことについて、数十年経つ今日この日まで考えたことがほとんどなかった。当たり前のようにそう暮らしていて、友達に見せたいとか、考えたことがなかった。誰に見せるわけでもないのにそういう風に過ごしているのが今では想像がつかなくて驚いた。槇村さとる展ではその思い出が一緒に開いたのだった。

 

バレエでなにがしかになるという夢破れて大学に進学し(バレリーナになりたい人は大学進学してる暇はないわけだけど)、ラップトップPCを買ってもらい、大学生活に没頭した。バレエの先生と1対1の世界、もしくは自分と自分の部屋しかない世界ではない、「社会」がそこにあったような気がする。行き帰りの通学時間に追いやられて、というのもあるし、バレエを一生懸命やったのに何にもならなかったという後ろめたさから、「今の自分じゃない自分になりたい」という気持ちが大学生活の方針を決めたと思う。自分が先生の要求に応えるために踊る、とかそんな単純な関係ではなくて、誰かのために何かをしたり、社会や組織を維持するための役割、という概念に出会った場所だった。

 

バレエと違って経済性があるので本来の社会はこっちなんだな、と思った。大学と社会人生活は地続きのように感じられ、ある程度の組織で、あるいはビジネスで自分自身のやりたいことや好きなことを達成することを王道に据えたので「関心のあるドメイン」「解決したい課題」のフレームにピッタリくるものを模索するというテーマを持ちながら課題解決力を養う社会人生活を送った。

 

この「模索する」状態には少し居た堪れなさがあり、要するに「好きなものが分からないまま大人になってしまった」んじゃないかと数年後に思わされそうで、解消したいと思っていたりする。いや、どんなことであれそもそも働いているだけで立派だし、この年齢になると人の人生にケチをつけること自体がもうナンセンスなので、外野は黙っていなさいと思っているんだけど、やっぱり自分自身の目がある。

 

自分で選択して過酷な労働スタイルに身を投じる人もいれば、海外に渡っちゃうような人もいて、ゼロからスキルを獲得する場合もあり、これもまた外野の目線だけど「好きなことに貪欲になっている(あるいは仕事そのものが好き)」ように見える。職業選びにおけるクリエイティブさがその証拠のように思う。反して私は仕事選びにおいてかなり腰が重たい。

 

ではなぜこれを自分自身が納得行くようにコントロールできていないのかを、考えてしまう。下手に悲観はしないことにしているので、問題があって考えているわけじゃないけれど、気にはなる。モーニングページの習慣はここに反映されてくるわけなのだけど、私は悉く他者の視点や意見に弱いのだなと実感をする。社会性を伴った生き物だから仕方ない。影響を与えてくる対象のことを好きだから、同じ土俵にいることにしたいし、あるいはバレエや雑貨作りをしていた日々から急に社会に視座を持つ同世代と出会った衝撃故かもしれない。

 

自分自身でひとりでに、何者かになりたいという気持ちが全くない。でも、バレエはもっと上手く踊りたいので、日々向上心を持って自分の身体のあちこちに関心を持っている。モーニングページを書く習慣ついでに、文字を書くことが増えて、より感性や表現に目が向いている。気持ちよく感覚をアウトプットする手段を探している。

 

今の仕事環境において「どんなキャリアを」「社会でどんな役割を」というテーマで語らなければフィットしないという気持ちがある。それが社会性。なので語れないことで疎外感や寂しさを覚えそう、という気持ちもあれば、それが人間関係を遠くしたりもするのでややこしい。

 

けれど誰との線も意識しなければ、基本的に踊れれば幸せで、今日はここを気をつけて踊ってみよう、と考えているだけで十分。

 

踊ることが仕事になればずっと踊っていられると考えていたけれどそれはダンサーという職業に就きたかったわけじゃない気がする。体を自分の思い通りに動かせることが自由だと思っているけれど、踊って何かを伝えたい、表現したいという気持ちもあまりない。コンテンポラリーの所在なさったらない、自分をそのまま表現するとか恐怖。自分の部屋でコソコソイラストを描いて満足するような自我なので、露出は求めていない。思い通りの絵が描けることも自由のひとつ。

 

という慎ましい自我の持ち主として、スタートラインが違っていたんだなと思う。キャリア開発のテンプレートに当てはまる好きなことややりがいのありそうなことを考えているわけだけど、そりゃ確かにWILLとCANが一致していると良いのだけど、WILLがサラリーマンの延長にない以上はCANだけで良かったりするのだ。

いっそ、仕事で何か色を付けることをスッパリ辞めてみて、自分自身のクラフト活動に時間を割けることを絶対視してみるとか、そういうレベルでの話なのではないかと思った。

 

今後の仕事の進路、というテーマではやっぱりバレエが好きなんだよね〜と発言したりすると、ではでは、バレエに関する業界に努めてみたらとか、身体系の学問で極めることを提案してくれたりもする。いや、踊るのが好きなので、踊ってないと意味ないんだよな。バレエを広めたいとかそういう思いもあまりない。自分が好きでやってて、それ以上でも以下でもない。発展はしないけど、次のレッスンでもっと上手く踊れると嬉しい。ひとつでも曲を掘り下げられると嬉しい。趣味としてやっていければ良いと発言するとなんだかレベルを下げている感があるので嫌だったけど、職業としてでなければという考えはない。(お金を払うか、もらうかの違いはある。おおきい。)

 

そしてこれが一番自分の中の印象として大きいけれど、バレエのことを考えていると、誰かに会いたくなったり、しない。寂しいな〜とか、ない。バレエ上手な人には憧れるけど、その他のことで誰かの何かを良いなと思ったりすることがない。要するに踊っていれば孤独じゃない、というのは、私にとってとても大きなこと。これでバレエダンサーになれるような素養や、上手くなれないことに挫折するメンタルでなければ、答えはシンプルだったのだと思う。まあそうじゃないことが現状の9割を占めている。

 

でも幸いなことに、100%の標準はないにしろ、仕事は向いている方のようで、人が苦に感じるラインで苦しくならないものでもある。そこに自己実現や承認をかこつけるので、苦しく感じる。バレエ教室にいるときは有機的に息をして、職場では淡々とパフォーマンスを発揮する、これで結構バランスが取れている。

 

結構、であって完璧ではなくて今後も悶々としそうなのは「ビジネスの性質」と「感性」の相性が悪いからじゃないかなと思う。ルーティンや計画といった類は、人間の本日の気分・コンディションによって伸び縮みすることや違うことが実行されることを想定していない。要するに排除した方がスムーズなことがほとんどだと思う。あ、今日は音がよく聞こえるな、とか、このテンポ合うな、とかそんなものに身を委ねるよりも変数が取り払われて、あるいは早急に対処されることが望まれる。

その機械的である中にも人間性を垣間見て、大きな取引や組織の行間が生まれるが、私という人間性が垣間見えたとして、それは情熱の差として現れる。ただ感性が豊かであれば良いわけではなく、当たり前だが仕事を一緒にする人間として熱量を感じてより世界が進むのがビジネスということなんじゃないかと思う。だって私だったらそういう人と仕事がしたい。

 

今現在明確になっている事柄は以下の通り。

・バレエのことを考えている時は孤独を感じないこと

・漫画家のような仕事部屋・空間に憧れていたこと、それらを膨らませるともっと満ちそうな気がすること

・自分の趣味はお金にならないことだから、と思っていたけどそれは正しくもあり、間違ってもいる

・そしてたまに仕事でアドレナリンが出ると自分が持つ幸福について忘れてしまう

・現在の職業で自分の好きや、やりたいに標準が合わせられないことに悩む必要はないこと

・仕事に過度に期待しなくて良いし、割り切ってもいいし、頑張っても良い

 

いつかどうにか標準が合うかも知れない。世で何かを解決して何かを成す気持ちはなくても、おかしいと感じるものは解決しなきゃと感じる気持ちそのものに従う日が来るかも知れない。

 

身体表現へのハングリーさと自分で稼ぐことへの執念を見事に「漫画家」としてパキパキ生きる槇村さんのエッセイを読み、バレエ好きとしても、いちOLとしても、大人としても全然ダメだ私と思わされた。社会性とバレエという私の中で矛盾する2つの概念の両方を獲得しているひとつの姿だと思いまた憧れの人物がひとり増えた。(タイトルは「あなた、今、幸せ?」)